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ドイツからオーストリーに向かう車中にて(2000.12.3)
草野心平の「蛙の歌(2004.6.3)

去る11月3日(祝)サントリーホール(小)で、コンサートに出演した。
飯田隆氏による曲で、詞は草野心平の「蛙の歌」。

最初の練習のとき、飯田氏は私に会うなりこう言った。
「あなたは彦根出身なんですって」
「はい」と私。
「僕はねぇ、彦根という町が大好きなんだよ」
「そうなんですか!嬉しいです!」

聞くといきつけのスナックまであるという。
私もどこかで聞いたような名前のお店。
いっぺんに作曲家の先生が身近な存在になってしまうこの不思議。

こんな会話から始まった練習。
氏は私の歌うのを聞き終わると、
「安心しました。」と、簡潔な表現で誉めてくださった。

日本語による歌曲は最近あまり歌っていない。
しかも、作曲家に直接意見を伺いながらできる本番は数少ない。
何より、今回の今までと違う点は、
このテキストが、日本語でありながら「蛙語ーカエル語」と言う
特異性のある部分があることだった。
そして、カエルの見たり、とらえたりする世界を描いているということも、
とても不思議さを与えてくれるものだった。

このところ、私の唯一指導をしている合唱団
(シュナイトバッハ合唱団)での取り組みから、
バッハの宗教曲などで、
ドイツ語など外国語のものを歌わなければならないとき、
まず、その「言葉」を訳し、それをちゃんと理解し、
その言葉の裏にある歴史的背景、宗教的な教えなど全てを「理解」して初めて、
聴く人の心に、訴えかける表現というものができ得る、
という考えが正しいと思うようになった。

でも、今回の言葉はいったいなんだっただろう。
「カエル語」。
日本語訳というのもつけられるそうだが、
カエル語を聞いたところで、わけがわからない。
日本語訳と照らし合わせるとそれらしく聞こえる。
それらしくというのは、なんとなく言語として聞こえるという事。

言葉の「意味」というものは私たちに何を与えているのか分からなくなる。
言葉でもって何を伝え合っているのかも分からなくなる。
さらに、音楽をつけるという事がどういうことなのか。

でも、この「蛙の歌」には不思議な良さがあるのです。

こういう事かもしれない。
私たちにとって、わからない外国の言語というものは、
所詮「カエル語」と同じ事だって事。
そしてもっと言うと、
言葉の意味がわかったとして、
実際、その言葉が何を意味しているかという事を本当に理解する、
もしくは感じるのは、
言葉が訳せただけではだめなんだという事。

この「蛙の歌」では、そのカエル語につけられた音楽がある。
それを、ピアニストと歌い手が表現する。
歌曲になった「蛙の歌」が、
日常の言葉の世界と違うのは、
言葉のもつ「意味」とはまた別な、
特別の「意味」が音楽によってつけられている事だろう。
そしてさらに、その音楽によって触発された表現者による、
日常ではあり得ないデフォルメされた感情の放出がなされる。

言葉そのものには、どんなに意味だけがわかっても、
その言葉の本質的な事柄を表現できないという事があるのではないでしょうか。

意味のわかりようのない「カエル語」でさえ、音楽の力で、
そしてそれを演じる表現者によって、
意味を通り越して本質的な事柄を、
聴いている人に伝える事ができる可能性があるという事。
それに、気づかされた。

最初に「言葉」ありき。
という文化とは異にするものだろうが、
私は、私たち表現者がこの世で埋めてゆける穴は、
こんなところにあるのかなと思えた。

新しい境地。
ちょっぴり嬉しい気持ちにさせられた。


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